東京工場を大崎から志村町へ移転
時代が日増しに戦争色を強めていく中で、当社の業容は次第に拡大していく。それとともに工場が手狭となったが、拡張の余地がないため、1937(昭和12)年、それまでの品川区大崎にあった東京工場の移転を計画。板橋区志村町(現・小豆沢3丁目)に新工場を建設し、同年の大晦日に大崎からすべての移転を完了した。
当時の志村町は東京でも開発が遅れている地域で、住民も工場誘致を希望していたことから、この地への移転を決めた。敷地面積は約1,900坪であった。
「東京発動機株式会社」に改称
1939(昭和14)年5月、当社はそれまでの「タカタモーター製作株式会社」から「東京発動機株式会社」へと社名を変更した。同時に資本金を150万円に増資するとともに、経営陣を大幅に刷新する。
従来の役員は高田益三だけが常務取締役として留まり、全員が交代。社長には証券会社出身の望月軍四郎が就任、役員には財界の実力者を集めた。
この背景には、同年1月に天皇陛下の御名代として朝香宮殿下が当社を訪問され、生産状況を視察されたことに象徴されるように、当社が日本の中でも有力な軍需工場として育っていたことがある。朝香宮殿下は、近衛師団長、軍事参議官などを歴任され、後に陸軍大将まで進んだ皇族であった。
唯一の小型ガソリンエンジン工場として陸海軍の協力管理工場に指定
時は前後するが、朝香宮殿下ご訪問前年の1938(昭和13)年、時の第1次近衛内閣は総力戦遂行のため、すべての人的・物質的資源を政府が統制運用できる「国家総動員法」を制定した。日本のすべてを挙げて「聖戦完遂」のため、突き進んだのがこの時代である。
1940(昭和15)年、当社では赤司初太郎が新社長に就任する。そして同年4月、陸海軍の協力管理工場に指定され、当時唯一の小型ガソリンエンジンの軍需工場として開発、生産に拍車がかかった。この時代は当社の創業期において最も躍進した時期である。
当時の主な軍需用製品は、陸軍の車両・無線用電源、陸軍航空本部の対空無線機用電源、航空基地の照明用電源、海軍の無線機用電源、上陸艇用10馬力・30馬力エンジンなどが挙げられる。
戦争拡大で岡谷新工場を建設
1941(昭和16)年12月8日、日本海軍はハワイ真珠湾の米・海軍の太平洋艦隊に奇襲攻撃し、ついに太平洋戦争に突入する。当社は軍需生産に追われるようになり、1942(昭和17)年2月、資本金を300万円に増資した。
また、翌1943(昭和18)年には、戦争の拡大と東京空襲が予想され、生産の拡大・確保を軍から要請されたため、長野県岡谷市に新工場を建設することを決定し、約3万坪の用地買収を行い、同年秋に着工した。岡谷工場は資材難の中、工場1棟、倉庫2棟、仮事務所が完成し、1944(昭和19)年暮れから一部操業を開始した。
なお、この年、社長の赤司初太郎が死去したため、高田益三が新社長に就任した。


