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創業期1922~1944

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高田益三の志

タカタモーター研究所の設立

タカタモータ研究所1922

1922(大正11)年4月、当社の前身であるタカタモーター研究所が高田益三によって設立された。益三は1894(明治27)年、岐阜市の生まれで、父は士族であった。県立岐阜中、名古屋高等工業機械科(現・名古屋工業大学)を卒業後、発電所、ガス会社、鉄工所などを経て、1921(大正10)年、当時の企業コングロマリットである鈴木商店の系列会社・戸羽造船所で「飛行機グループ」を組織した。ここで益三は、航空エンジンや小型乗用車の設計など、当時の最先端技術の研究・試作に取り組んだが、不況により鳥羽造船所が倒産し退職を余儀なくされたため、同僚3人を連れて上京する。28歳であった。

この時、益三は以前からの知り合いである武井銀次を訪ねた。武井は1874(明治7)年生まれの軍人で、日露戦争に従軍、陸軍大尉だった。退役後、メキシコで開拓事業に取り組み、1921(大正10)年頃、知人を通じて高田益三と知り合う。武井は益三のエンジン、ポンプについての技術力、事業意欲を高く評価し、何とか益三の「モノづくり」意欲を事業化したいと願っていたところ、彼の退職を知り、上京を促した。

学生時代からの研究を続け、新しい技術を世に問いたいと取り組んでいた高田益三。明治・大正時代に「世界を体験し」、若き研究者の才能を開花させるべくサポート役を買って出た武井銀次。この2人の出会いによって「タカタモーター研究所」は誕生したのである。

所在地は東京府京橋区丸屋町3番地(現在の中央区銀座8丁目)で、エンジン、揚水ポンプの研究・製作を主な事業とした。

東京府民の生活を支えた発動機付き揚水ポンプ

発動機付き揚水ポンプ

設立2年目の1923(大正12)年9月1日、タカタモーター研究所は関東大震災による火災のため、事務所を本郷区(現・文京区)駒込曙町9番地に移転した。ここで発動機付き揚水ポンプを製作、東京逓信局、東京市役所、東京電灯へ納入した。のちの郵政公社、東京都庁、東京電力は、現在でも都民生活になくてはならない業務を行っている。当時、タカタモーター研究所は設立2年目という若い会社であったが、その技術は当時の東京府民生活のインフラを支えるものと評価された。

「タカタモーター企業社」に改組

1925(大正14)年、経営が軌道に乗り出したタカタモーター研究所は、名称を「タカタモーター企業社」に変更し、芝区(現・港区)佐久間町2丁目に移転した。これは電気工事業を営んでいた山県謙次氏の好意によるもので、同氏の事務所に同居したのである。また、工場は本所区(現・江東区)緑町3丁目に新設した。

タカタモーター企業社は山県氏の好意を多として、会社のマークに同氏の「Y」のイニシャルを入れた。この亀甲印の商標は1945(昭和20)年の終戦まで使用された。

1927年(昭和2)年9月、山県氏が事業不振に陥ったため、タカタモーター企業社は再び、事務所を元の本郷区駒込曙町に移した。

時代とともに軍需工業へ

国産初の軌道用モーターカーを製作

MF-70A

昭和前半の日本は太平洋戦争へと向かう歴史であった。発動機付き揚水ポンプで当時の東京府民の生活を支えた当社も、時を追って次第に軍需産業の性格を色濃くしていく。

1927(昭和2)年、当社は国産初の軌道用モーターカー「MF-70A」を製作し、鉄道省へ納品、同省から優良国産品に指定された。「MF-70A」は2人乗り、3段変速車であった。

翌1928(昭和3)年には、昭和天皇御即位に伴う御大典用の軌道用モーターカーを製造し、鉄道省へ納入、全国各地に配車された。この車も優良国産品に指定された。

無線通信用発電機

そして、1928(昭和3)年から1929(昭和4)年にかけて陸軍からの要請で野戦用の無線通信用の発電機を試作し、陸軍省の審査で性能優秀と認められた。これ以降、大量に製作され納入が続いた。軍需産業化の始まりである。

こうして生産が拡大し始めたため、1930(昭和5)年に、東京工場を品川区下大崎に移転、新設した。従業員は25名だった。同年、鉄道省から可搬発動発電機の発注を受け、大量納品した。

この東京工場は1932(昭和7)年2月に設立された㈱日本気化器製作所に譲渡された。同社は当時急務とされていた国産の気化器の製作を開始したが、実はこの気化器の技術もタカタモーター企業社が開発したもので、製造・販売権を同社に譲渡したものであった。

満州事変勃発、陸軍に小型無線発動機を大量納入

昭和史の中で「15年戦争」と言われる太平洋戦争の端緒は、1931(昭和6)年の満州事変の勃発である。この年、当社は陸軍技術部から1kw無線用発電機の製造を依頼され、多数納品している。満州事変から太平洋戦争、そして欧州におけるドイツ・イタリアと連合国の戦いを含む第2次世界大戦は、人類の歴史において機械化された戦争の始まりである。満州事変でも機械化軍備の拡充に伴い、タカタモーター企業社の2サイクルエンジンが軍用機材として高く評価され、発動発電機、動力伐採機などの受注が増加した。

株式会社化して「タカタモーター製作株式会社」とし、初の船外機を開発

1932(昭和7)年10月20日、タカタモーター企業社はそれまでの個人会社から資本金50万円の「タカタモーター製作株式会社」となった。代表取締役には武井銀次が就任、高田益三は取締役となった。両者はそれぞれ4,000株を保有する筆頭株主でもあった。他には、武井、高田の一族が株主となっている。なお、現在、当社ではこの10月20日を創立日としている。

製品では1935(昭和10)年に初めて船外機「2F‐50」を開発し、当時のカタログに掲載されている。船外機は旧陸軍では「操舟機」、旧海軍では「舷外機」と呼ばれた。小型の船の縁に簡単な取り付け具で引っ掛けるように装着できるエンジンである。「2F‐50」は2サイクル・2シリンダー、3馬力であった。

「東京発動機株式会社」に改称

東京工場を大崎から志村町へ移転

時代が日増しに戦争色を強めていく中で、当社の業容は次第に拡大していく。それとともに工場が手狭となったが、拡張の余地がないため、1937(昭和12)年、それまでの品川区大崎にあった東京工場の移転を計画。板橋区志村町(現・小豆沢3丁目)に新工場を建設し、同年の大晦日に大崎からすべての移転を完了した。

当時の志村町は東京でも開発が遅れている地域で、住民も工場誘致を希望していたことから、この地への移転を決めた。敷地面積は約1,900坪であった。

「東京発動機株式会社」に改称

1939(昭和14)年5月、当社はそれまでの「タカタモーター製作株式会社」から「東京発動機株式会社」へと社名を変更した。同時に資本金を150万円に増資するとともに、経営陣を大幅に刷新する。

従来の役員は高田益三だけが常務取締役として留まり、全員が交代。社長には証券会社出身の望月軍四郎が就任、役員には財界の実力者を集めた。

この背景には、同年1月に天皇陛下の御名代として朝香宮殿下が当社を訪問され、生産状況を視察されたことに象徴されるように、当社が日本の中でも有力な軍需工場として育っていたことがある。朝香宮殿下は、近衛師団長、軍事参議官などを歴任され、後に陸軍大将まで進んだ皇族であった。

唯一の小型ガソリンエンジン工場として陸海軍の協力管理工場に指定

時は前後するが、朝香宮殿下ご訪問前年の1938(昭和13)年、時の第1次近衛内閣は総力戦遂行のため、すべての人的・物質的資源を政府が統制運用できる「国家総動員法」を制定した。日本のすべてを挙げて「聖戦完遂」のため、突き進んだのがこの時代である。

1940(昭和15)年、当社では赤司初太郎が新社長に就任する。そして同年4月、陸海軍の協力管理工場に指定され、当時唯一の小型ガソリンエンジンの軍需工場として開発、生産に拍車がかかった。この時代は当社の創業期において最も躍進した時期である。

当時の主な軍需用製品は、陸軍の車両・無線用電源、陸軍航空本部の対空無線機用電源、航空基地の照明用電源、海軍の無線機用電源、上陸艇用10馬力・30馬力エンジンなどが挙げられる。

戦争拡大で岡谷新工場を建設

1941(昭和16)年12月8日、日本海軍はハワイ真珠湾の米・海軍の太平洋艦隊に奇襲攻撃し、ついに太平洋戦争に突入する。当社は軍需生産に追われるようになり、1942(昭和17)年2月、資本金を300万円に増資した。

また、翌1943(昭和18)年には、戦争の拡大と東京空襲が予想され、生産の拡大・確保を軍から要請されたため、長野県岡谷市に新工場を建設することを決定し、約3万坪の用地買収を行い、同年秋に着工した。岡谷工場は資材難の中、工場1棟、倉庫2棟、仮事務所が完成し、1944(昭和19)年暮れから一部操業を開始した。

なお、この年、社長の赤司初太郎が死去したため、高田益三が新社長に就任した。

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