ページタイトル

発展期1969~1984 再び技術の企業として進む

コンテンツ

再建へ向けて

本社移転と船外機業界の形成

昭和40年代は日本全体がいわゆる高度成長時代を謳歌した時代であった。日本の産業界は電気製品を中心に、ソニーに代表される各メーカーが競い合って新製品を次々に開発、輸出も活発に行われ、欧米市場に高品質・低価格の“メイド・イン・ジャパン”があふれた。

1968(昭和43)年7月に、当社は本社をそれまでの東京都中央区京橋から東京工場(かつての志村工場)のある板橋区小豆沢3-4-9に移転した。これは再建計画の一環であった。

富士電機製造への経営委譲から更正法適用までの時代、2輪車の利益悪化による苦境の中で、船外機は大いに検討した。こうした中、業界では1962(昭和37)年にボートショーを開催するために各社が集まった舟艇振興会が衣替えして、社団法人日本舟艇工業会として1970(昭和45)年に発足した。当社の藤掛善蔵管財人は同会の発起人の一人となり、発足後は常任理事に就任した。藤掛は1964(昭和39年)、当社管財人となり、再建への道を開いた経営者である。

こうした中で、当社のエンジンの新しい用途を開く明るいニュースが舞い込んだ。米国・ラップ社向けの雪上車(スノーモービル)エンジンの大量受注で、1969(昭和44)年春のことであった。

ラップ社向けにスノーモービル・エンジンを大量受注

この商談は会社再建中の当社にとって極めて意義の大きなものだった。当時、当社は三井物産と共同でアメリカ各地のスノーモービルショーにエンジンを展示会し、売り込みを図った。これがきっかけとなり、マンスフィールド、オハイオのラップ社との契約に成功し、エンジンの展示会を開いた。これをきっかけにラップ社とつながりができ、20数万台という大量の成約に結びついた。

相次いで新製品開発に取り組んだ船外機

B14B型B14B型

船外機は業界で各社の激しい競争が続いたが、当社は積極的に新製品開発に取り組んだ。この中には、1970(昭和45)年3月に発売した「B13A」(8馬力)のように途中小規模な改造はあったものの、1986(昭和61)年まで15年以上も生産を続け、生産・販売とも当社の最大の機種となったものもある。

1971(昭和46)年6月に6馬力「B10A2型」を、同年9月に18馬力「B30A型」を発売した。

この当時、それまで一部輸入が制限されていた外国製船外機の輸入が完全に自由化され、海外有力メーカーとのシェア争いが始まったほか、農業機械などに強い国内メーカーも業務用船外機の分野に参入してきた。それらはその後の競争の中で短期間に撤退したが、当時は当社にとって脅威であった。

新製品開発

このほか、従来にない新しい分野を開拓する動きも始まった。1970(昭和45)年4月に開発した輸送用冷蔵装置「コールドジェット」はその典型例である。これは、自動車に搭載され、食料や食品を安全かつ新鮮なまま運搬するニーズに応えたもの。電気を使った蓄冷式で、静かで無公害という特徴を持ち、消防ポンプ、船外機に続く事業の第3の柱として期待された。特に短距離冷蔵輸送で威力を発揮し、現在も生産を継続している。

更正法手続き完了

1971(昭和46)年12月22日、当社は東京地方裁判所から会社更生法の終結の判決を得た。更正法適応の合計5年7カ月の期間は役員、社員にとって初めて経験する苦難の年月であったが、ギリギリの苦境から生還した経験はその後の経営に大きな教訓をもたらした。当社の歴史において最も重要な期間であったと言える。

この間、会社再建に心血を注いだ管財人の藤掛善蔵は既に病床にあったが、更正法終結後は社長として経営に当たった。

先見性を持った技術開発

「トーハツ」へ社名変更

1972(昭和47)年は冬季オリンピックが日本で初めて札幌で開催された年である。スキーのジャンプ競技での日本人選手団の活躍に人々は歓声を上げた。

一方、産業界に眼をやると、1960年代中頃から続いていた「日米繊維戦争」で日本側の妥協による締結がある。時の佐藤栄作首相による沖縄返還という明るい話題も、「糸を売って縄を買った」と陰口を叩かれたほど、日本の産業界に影響を与えた。メーカーの雇用吸収力、問屋、商店など裾野の広さなど、戦後の日本社会で繊維産業の持つ重みは大きかった。この繊維産業における日米両国の対立と決着の仕方は、その後の自動車、半導体などの日米貿易摩擦に影響を及ぼすことになる。これは同時に日本が、“重厚長大”型産業から“軽薄短小”型産業へ急速に重点を移し、本格的な消費経済社会の到来を迎えつつあることを意味していた。

さて、“瀕死の病”から立ち直った当社はこの1972(昭和47)年6月、社名を東京発動機株式会社からトーハツ株式会社(TOHATSU CORPORATION)に改めた。

この時の社内の雰囲気は「第2の創業という明るい雰囲気だった」と回顧されている。

ただ、残念ながら病にあった社長・藤掛善蔵は当社再建へ礎を築いたものの、昭和47年4月に死去した。後任には満田武が選任された。

可搬消防ポンプの開発

V15A・12馬力・重量30kgV15A・12馬力・重量30kg

1973(昭和48)年当時、国は大地震などの災害防止対策を大きく取り上げ出した。東京では隣組を中心とした自衛消防隊の組織化を計画。消防庁はその一環として婦人・子どもでも持ち運びができる重さ30kg以下の超小型(C-1級)消防ポンプの開発をメーカー各社に要請した。

当社はこの計画に進んで協力し、新機種の開発に当たり、他社に先駆けて開発に成功した。1972(昭和47)年12月に日本消防検定協会の型式認定を受け、翌1973(昭和48)年2月から発売した。これが軽量高性能として評価を得ている「V15A・12馬力・重量30kg」消防ポンプである。

トラック用冷蔵システムの開発

ニューコールドジェットCJ850、2トン車クラスの車載用蓄冷式冷凍庫(左)ニューコールドジェットCJ850
(右)2トン車クラスの車載用蓄冷式冷凍庫

当社は、1970(昭和45)年に開発した輸送用冷凍装置「コールドジェット」の内容を充実させた「ニューコールドジェットCJ850」を1974(昭和49)年に開発した。D

この装置は、車を使用しない夜間に夜間電力を利用して1日分の冷気を確保するというもの。仕事中は夜間確保された冷気を平均的に放冷し、庫内をいつも安定冷却する。このため、ユーザーに好評であった。

また、同1974(昭和49)年には2トン車クラスの車載用蓄冷式冷凍機の製造を開始した。

軌道に乗る生産・販売

国内出荷を上回る船外機の輸出

主力の船外機はこの時期、業界全体で国内向け生産を輸出が上回るようになる。日本舟艇工業会の調査では、1974(昭和49)年には国内の2倍以上の輸出量となり、新機種は国内よりも、オーストラリアやアメリカで先に発表される傾向が定着した。

当社の35馬力級の歴史に残る名品の「M35A」船外機は1976(昭和51)年8月から国内販売し、11月から輸出を開始した。同機は東京工場で初めて製造を開始した船外機で、国産500cc級船外機の先鞭をつけ、翌1977(昭和52)年以来、熱海レースで海外勢を抑えて連続制覇し、国内外での声価は現在でも高い。

その後1978(昭和53)年、1979(昭和54)年と新しい25馬力、12~18馬力、9.9馬力、55~70馬力と新機種を発表した。

この状況を反映し、経営的にも1976(昭和51)4月1日~1977(昭和52)年3月31日の決算は、売上高で前期比27.5%増、経常利益同11.8%増の好決算となった。「主力の船外機は輸出が好調で前期に比較して8億47百万円の大幅増益となりました」と第73期事業報告書に記載されており、株主配当も年5円(10%)を実施している。

また、資本金も1978(昭和53)年2月にそれまでの3億円から5億円に増資した。

東京工場の改築

東京工場東京工場

このように当社は1970年代後半において順調な業容拡大路線に乗り始めた。このため、生産体制を刷新する動きが相次いだ。

また、東京工場の近代化を進めるため、建屋、内部設備とも全面的な改築に乗り出す。1978(昭和53)年11月に最新鋭かつ合理的な工場として完成した。

この年、消防ホンプ関係では、関連法規の改正によって、一定の建物については非常動力装置の設置が義務付けられた。これにより、自動消火装置の需要が伸び、前期比59%増という大幅な売上増を果たした。

マーケティング思考の成果

現場に飛び込んだ営業活動

当社はこれまで見てきたように、技術を売り物にしてきたメーカーである。しかし、どんなに優秀な技術によって生み出された製品でも、顧客に認めてもらい、販売できてはじめて事業が成り立つことは言うまでもない。

船外機、消防ポンプは、警視庁、警察庁、法務省、東京消防庁、海上保安庁などへ販売されたほか、各地方自治体へ販売された。この時、1974(昭和49)年に起きた熊本市の大洋デパートの火災があり、死者103人の大災害であったが、ここでデパート側の防災管理の不備が指摘され、大規模なビル火災から人命を守るため、初期消火や救助活動をいかに迅速に行うかについて検討された。これが当社の防災関連の需要につながったのであった。

経営の安定化を目指した不動産事業

1984(昭和59)年5月、満田武の死去に伴い、後任に松本功が社長に就任した。

当時の経営陣は、船外機、消防ポンプの2大事業のほかに、保有している土地建物の不動産賃貸事業に着手した。

(左)志村坂上ビル  (右)志村坂下第三別館(左)志村坂上ビル  (右)志村坂下第三別館 

当社は、戦前から板橋・志村の地(現在の小豆沢、都営三田線志村坂上駅近郊)や常盤台に工場や倉庫などの土地を保有していた。これらの中には遊休地となっているものもあった。1984(昭和59)年には志村の2輪車工場の跡地に倉庫を新築し、これを賃貸する事業を開始した。

その後も、テナントビルを建築し、長期にわたって賃貸する不動産事業を継続している。ちなみに1984年というと日米貿易摩擦が本格化、輸出急増により円高が進行したバブル景気の開始直前。不動産投資がかなり盛んになり始めたころである。しかし、当社の不動産事業はあくまでも保有資産を有効活用するものであり、投機とは縁のないものだった。

次ページ 飛躍期 平成のモノづくり企業として

【参】ページリンク

ページトップへ